6月28日(火) カールスバッド〜サンタ・フェ AM6:00、起床。晴れ。テント収納。朝食はいつもの定番。シリアル、バナナ、ジャム・サンドウィッチ、紅茶。 AM8:00、出発に先立ち、ブリッタがクッキング用の銀紙で帽子を作り私の頭に被せた。「これからローズウェルのUFO博物館に行くが、そこでエイリアン(Alien)に脳味噌を吸われないように」だと言う。他の4人もそれぞれ、帽子を作り頭に被せていざ、出発である。車は国道285号線を北上する。今日の走行距離は480Kmである。 Protect heads
against aliens AM9:45、ローズウェル(Roswell)の国際UFO博物館・研究センター(International UFO Museum
& Research Center)に到着。ロビーに入ると早速ETの立像がお出迎え。展示室には、新聞記事や写真が所狭しと張られており、とても短時間では読み切れない。資料室に行くと夥しいファイルやボックスが整理されている。事務室、売店まで抱えたこのUFO博物館は世界の中心になっているようだ。私は実物を見るまではUFOの存在を信じないが、これだけ熱心に取り組んでいる人が居る事に感心した。 International UFO
Museum & Research
Center AM10:30、出発。乾燥地帯(Arid zone)が続く。緑が少なくなり土色が多くなってくる。この辺も砂漠化が進んでいるようだ。昨年オーストラリアの真ん中を縦断した時と同じような光景が広がっている。汗をかいてもすぐ乾燥してしまうので、あまり汗をかいてないかと思ってしまうが、実は汗をかくそばから乾いているだけの事で、水分はどんどん奪われているのだ。心して水分を補給する必要がある。こんな中で、まことに小規模の石油の掘削作業が、行われている所を時々目にして、ジェームス・ディーン主演の映画「ジャイアンツ」を思い出した。 AM12:00、トイレ休憩。珍しく近くを貨物列車(Freight train)が走っている。長い長い列車である。何両ぐらいあるのか数えてみると、約130台のコンテナを引っ張っていた。 Freight
train AM12:30、小さな公園のベンチで立食のランチ。強風の中で、サンドウィッチの作り方も大分手慣れてきた。西洋人は何でも器用に挟んで食べているが、私は「何か少しでも美味しく食べられる物はないか」と物色する所から始まる。そして私は、牛乳なりコーヒーの水分がないと、サンドウィッチを食べられないが、彼らは水分なしでも食べてしまう。 PM3:00、サンタ・フェ(Santa Fe)のホテル「Super 8」にチェックイン。6日ぶりのホテルでほっとする。此処で2泊し、最後の鋭気を養おうという作戦か。この後はラスベガスまでの7泊がテントになる。今日はポールと相部屋だ。入室すると早速、溜まった洗濯物を洗濯機に放り込む。2ドル也。
Super
8 PM5:00、皆でディナーへ行く時、ホテルのロビーでブリッタが自分の母親を紹介。一緒にディナーへ。ブリッタの母親は、ブリッタによく似た細面で、青い目の理知的な雰囲気の女性だ。何日か前にブリッタから、「原則を破ることになるが、母親の同行を認めてくれるか」との相談があったので、驚きはしないが、日本では考えられない行為なので、「この辺も文化の違いか」と思わざるを得ない。 テキサス州からニュー・メキシコ州あたりは、スペイン語の地名が多い。サン・アントニオ(San Antonio)、エルパソ(El Paso)、サンタフェ(Santa Fe)等がそれだ。そしてメキシコ系のアメリカ人が多い。今日のディナーも、そういう雰囲気の町中にある、メキシコ料理店(Mexican restaurant)である。もう何度かメキシコ料理は食べているから、だいたいの傾向は分かってきたのだが、本当に口に合って美味しいと思うことはなかった。 メニューの中から、慎重にメキシコ料理からはずれた物を選んだ。「ステーキ云々」と「何とかスープ」と書いてある。「まだアメリカに来てからステーキを食べたことが無かったし、ちょうど良い機会か。それに、できれば美味しいスープも飲みたいし」と思っての選択である。出された料理は、期待したより大きな皿と、期待したより小さな小鉢のスープ。 Mexican
restaurant 大きな皿には、確かにステーキが載っていたが、余計なもの、期待してない物が沢山あった。チーズと野菜を包んで揚げたもの、ミンチ状の肉、それにメキシカンのライスである。私は、ステーキは全部食べたが、他の物には殆ど手を付けることなく終わった。 小鉢には豆と、なにかの肉が入っており、スープと言うより、煮物が出て来た感じである。これもあまり美味しくはなかったが、渋々平らげました。これで税金やらサービス料を加算されては、踏んだり蹴ったりだなと思いながらも、27ドルを支払いました。食後にアッキーも「メキシコ料理は美味くない」とはっきり言っていた。 ブリッタは自他共に認めるベジタリアンだが、アメリカのベジタリアンの料理を見ていると、肉は食べなくとも、チーズとか何らかの形で高カロリーの食物が入っており、カロリーは十分ありそうに見える。日本料理でベジタリアンというと、カロリーが足りているのか心配になるのだが。 サンタ・フェは、海抜2000mの高原盆地にあり、日中の日差しは強いが夜の気温は下がって、心地よく眠れる。年間を通して雨量は少なく、砂漠化の中に位置していることは例外ではなさそうだ。ダウンタウンを歩いていると、毛皮のコートや、ジャンパーが売られているので「こんなに暑いのに誰が買うのだろう」と聞くと、「冬は雪が降って寒くなる」と言う。高原盆地特有の気候か。 夕食中に、ブリッタの母親が、「私は禅に興味があり、話を聞いたり本を読んだりしています。中でもコウアンと言う考え方に魅かれています。コウアンとは、KOANと綴り、日本から来たものです」と言う。私も仏教徒の端くれとして、その基本的な考え方ぐらいは知っているつもりだ。しかし、コウアンと言われても、ピンと来る文字は思い浮かばなかった。その場で電子辞書にコウアンと入力してみると、7つの言葉が出て来た。どれも、思想を表現している文字とは思えない。この件は後日調べることにしてレストランを出た。 PM7:30、市内を散策。我々は街の中心部にある公園のプラザや、聖フランシス大聖堂(Saint Francis Cathedral)に行きつつ懇談した。私が「サンタ・フェ(Santa Fe)とは、面白い名前だと思うが、どういう意味なのだろう」と聞くと、ブリッタが「Feと言うのはFaithと言う意味です。宗教的な意味を持っています」と教えてくれた。つまり、サンタ・フェはスペイン語で「聖なる信仰」と言う意味になる。 PM9:00、ホテルに戻り、洗濯物を整理した後、インターネットに向かい、夕食時の話題に出たコウアンについて調べた。すると、ウィキペディア(Wikipedia)にヒットし、コウアンとは「公案」と書くことが分かった。そこで再び電子辞書の大辞林に戻って検索するとありました。その意味は、 @中国の役所の文書。調書。裁判記録。 A禅宗で、修行者が悟りを開くため、研究課題として与えられる問題。優れた修行者の言葉や事績から取られており、日常的思考を越えた世界に修行者を導くもの。 と言う。 ちなみに、中国語の辞書では@の意味しかなく、Aの意味は無い。そして日本における仏教全体の中にも、公案と言う考えが無いとするならば、Aの意味は、比較的最近、日本の禅宗が付加したものであろう。 ここで私が興味を持つのは、教えの中身は兎も角、アメリカの一婦人が、熱心に禅の教えに興味を持っているという事と、禅がその教えを、現代に通用するように進化させている事である。仏教が幾つにも枝分かれして来た、その実例を見た思いもする。仏教は解釈学だと友人の僧侶が教えてくれた事があるが、こうやってその時々の先覚者が、新しい解釈を展開してきた結果が、今日の仏教の姿なのであろう。 PM10:30、就寝。 6月29日(水) サンタ・フェ AM6:00、起床。 AM7:00、朝食。ワッフル・ベーカー(waffle
iron)でワッフルを焼いて食べている人がいたので、真似して焼いてみた。型付き鉄板の両面に油を敷いて、あらかじめ用意されている具材を流し込み、3分間程待てばよい。綺麗に出来上がり、蜂蜜をかけて食べた。蜂蜜の掛かっている部分は甘く、掛かっていないところは、味気なく、朝食としては如何なものか?と首を傾げる一品でした。ほかには、コーヒーとリンゴ。リンゴがニューヨークのホステルで食べていた物と同じ種類で美味しかった。 食事中、テレビを見ていると、盛んにロス・アラモス(Los
Alamos)の山火事を放映している。現場はこのホテルから車で1時間位の所だ。この地域の乾燥状態を考えれば、山火事の発生は、ありうる事だ。そして一度発生したら、消化が容易でないことも想像に難くない。 AM9:30、ホテルからブリッタの運転でダウンタウンへ。今日は一日サンタ・フェでゆっくりする。午前中は市内の散策。午後は近くの温泉へ。ブリッタの母も一緒だ。 AM10:00、市内の中心地、プラザ(Plaza)公園で車を降り、自由行動に。我々4人と、ブリッタ親子のグループに分かれて散策に。サンタ・フェは人口8万人の小さな町だ。ここがニュー・メキシコ州の州都だと言うから、ピンとこない。日本なら、市になりたての町がそれ位の人口で、県庁所在地で、8万人なんて言うところは無いのでは。 本日見学した主な所は次の通り。 1、
まず、主な教会を見て回る。昨日の夜も行った近くの教会(Cathedral
Basilica of St. Francis of Assisi)は、ミサが行われており、中には入れなかった。 Saint Francis
Cathedral 2、
次に行ったロレットチャペル(The Loretto
Chapel)は、入場料が3ドル。ここは、支柱無しの螺旋階段:奇跡の階段(Miraculous
Staircase)で有名な教会だ。昔はこの螺旋階段に聖歌隊が並んで歌っていたようだ。 The Loretto
Chapel 3、
3カ所目は、バターン・メモリアル(Bataan
Memorial)。これは第2次世界大戦中に、日本軍がフィリピンにおいて捕虜を強制的に移動させることによって、多くの捕虜を死に至らしめた、いわゆる「バターン死の行進」(Bataan Death
March)の記念碑である。 Bataan
Memorial 4、
次に、州の庁舎へ。「ここは確かに庁舎か、アート・ギャラリーの間違いではないか?」と思うほど、庁舎内の至る所に様々な絵画や工芸品が展示されていて、自由に鑑賞できる。以下の2点は、4階に展示されているGary
Mortonの作品と、3階に展示されているHolly
Hughesの作品である。 Gary Morton Holly Hughes 5、
アメリカで最も古い1610年建築のサン・ミゲル教会(San Miguel
Church)。生憎修復工事中であった。 San Miguel
Church サンタ・フェは昔、ネイティブ・インディアンの中心地になっていたと言う。現在でもその流れは残っているらしい。町に見られる建物の外観は、昔ながらの日干しレンガ(アドービ:Adobe)が使われており、独特の雰囲気を醸し出している。 Adobe-1 Adobe-2 昨今のサンタ・フェは、アートの町として有名になっている。美しい町並みと穏やかな気候を求めて多くのアーティストたちが移り住み、今では市内に250以上のギャラリーや、50を越えるネイティブアメリカンのアクセサリーを扱う店があると言う。キャニオンロード(Canyon road)と言う、市内を南東に延びる細い道には、ギャラリーが100軒以上集まっている。 次の2点は市内で目撃したアートである。 Art-1 Art-2 私が初めてサンタ・フェの名前を知ったのは、写真家の篠山紀信氏が女優の宮沢りえのヌードを「サンタ・フェ」のタイトルで出版したときである。宮沢りえが18歳になるかならないかの頃で、もう20年も前になろうか。あの写真集は、芸術かポルノかの問題でも話題になった事を記憶している。 サンタ・フェの町を歩いてみて思う個人的な感想は「サンタ・フェは確かに芸術の町ではあるが、この町で宮沢りえのヌードを撮る必然性は無いだろう。他にふさわしい所はいくらでもある」と言うことだ。ただ私は、あの写真集がポルノだ等とケチなことは言わない。美しいものは美しいのだ。 サンタ・フェは標高2000mの高原盆地にあるため、日差しは強いが気温はしのぎ易い。歩く人の平均的な出で立ちは、男女共に短パンにサンダル。そして顔立ちの多くは、メキシコ系である。ニュー・メキシコ州と言い、サンタ・フェと言い、「地名からしても、ここはメキシコだろう」と言う印象を抱かざるを得ない。 Plaza AM12:00、プラザ(Plaza)に再集合して、近くの温泉地、オホ・カリエンテ(Ojo Caliente
Resort and Spa)を目指す。オホは目(eye)、カリエンテは熱い(hot)を意味するそうだ。 Ojo Caliente
Resort and Spa 近くの温泉とは言っても、車を飛ばして国道84号線を北上すること1時間半である。この間に目に付いたものは、2つのカジノと、1本の川。あとは、緑の少ない荒涼とした土地である。ロス・アラモスの近くを通ったが、TVで放送していた山火事は見えなかった。 PM1:40、温泉地に到着。まず、敷地の一角で昼食。メニューは「野菜サラダ」だけでした。持ち込んだ各種の野菜を刻んで大きなボールに入れ、かき混ぜて「はい終わり」と。これを各自が皿に取り、好みのソースをかけて食べる。ウサギなら泣いて喜びそうだが。昼食の時間も遅くなり、腹が減っている所に「野菜だけと言うことは無いでしょう」と、腹で泣きながらムシャムシャ。西洋人はこんな食事も時々やっているのか、皆美味しそうに食べていた。 Lunch PM2:30、入場料の20ドルを払ってバスタオルを借り、温泉へ。各種の温泉が5つ。その中には、体に泥を塗って楽しむ温泉、マッド・プール(Mud
Pool)もあった。造りは日本の露天風呂並みの荒削り。気を付けないと、つまずいたり、滑ったりしそうだ。ここで5時半まで自由にと言われても。私には30分もあれば十分だ。ブリッタのママも温泉を楽しんでいる。 Mud Pool PM3:30、私は温泉から出て、休憩所でポメラを叩く。こんな事も有ろうかとポメラを持ってきて良かった。時間潰しには最高の道具である。 PM5:30、皆が温泉から上がって、夕食をここで食べるか、サンタ・フェに戻って食べるか検討した結果、サンタ・フェの町へ戻って食べることに決定。 PM7:00、夕食。たまたま車が停まった駐車場の前に「アジアン・レストラン」があり、私は此処なら口に合うものが食べられそうだと喜んだ。しかし、ブリッタが考えていたのは、此処の裏手にあるアフリカ料理の方であった。二手に分かれて食べる話も出たが、結局皆がアジアン・レストランで食べることになった。 この店は中華料理がメインだが寿司もやっていた。寿司ネタを見るとそこそこの魚が置いてある。私は思いきって「寿司デラックス」を注文した。それに、グリーン・ティーと味噌・スープ。出されたのは、緑茶ではなく、ほうじ茶。味噌汁はほとんど味噌の入ってないお湯のようなもの。あまり薄いので「もっと濃くしてください」と注文した。 再度出てきた味噌汁の味も、大して変わらなかった。ただ寿司そのものは、まずまずのものが出され、久しぶりに腹一杯食べました。リンダは酢豚。ポールは焼きそば風のシンガポール・ヌードル、ブリッタ親子は、海鮮料理を食べていた。ひとりアッキーは、食欲がないと言って、何も食べなかった。 PM9:00、ホテルに帰着。妻にメールを送る。 PM10:30、就寝。 6月30日(木)
サンタ・フェ〜モアブ AM6:00、起床。 AM6:30、朝食。シリアル、食パン、コーヒー、リンゴ。 昨日から報道されているロス・アラモスの山火事は、更に燃え広がり、かなりの被害が出ている模様だ。 AM8:00、出発に先立ち、ブリッタのママ(エリザベス・クラマー:Elizabeth
Cramer)とお別れの挨拶。「公案」を英訳して送って欲しいと頼まれたので、「私の力を越えています」と断ったが、「あなたの英語なら大丈夫だから」と言って粘られた。やってみるしかないか。 Elizabeth
Cramer AM10:00、トイレ休憩。今日はコロラド州(Colorado)を経由して、ユタ州(Utah)のモアブ(MOAB)を目指している。車は国道84号線、160号線、州道184号線、国道491号線、191号線を乗り継いで、640Kmを走る。コロラドは、ブリッタの故郷であり、20年程住んでいた。母親のエリザベスは現在そこに住んでいる。今回もそこからサンタ・フェの娘に会いに来たのだ。 ブリッタは運転中での話でも、母親の話をしばしばしている。「君は、母親を尊敬しているのだね」と言うと、「離れて生活している時は尊敬しているんだけど、一緒になると喧嘩が絶えないの。性格が似ているからかな。だから一緒にいるのは2日で十分です」」と言っていた。 コロラドで思い浮かべるのは、NHKの英語番組にチョクチョク顔を出す、売れっ子のパックンだ。彼はコロラド出身のハーバード大学卒業と聞いている。人柄の良さそうな好青年だ。1年ほど前に、コロラドの母親を訪ねるTV番組を見た。 コロラドで思い出す2つ目は、小学生か、中学生の時に習った「コロラドの月」(Moonlight on
the Colorado)と言う歌だ。何十年も前の歌だが、未だに忘れないでいるのは、印象が強かったのであろう。車の中で歌ってみたが、誰も知らないと言う。アメリカ民謡だと言うのに。 歌詞は以下の通り。 モール作詞 キング作曲 近藤玲二訳詞 コロラドの月の夜 一人ゆく岸辺に 思い出を運びくる はるかなる流れよ 若き日いまは去りて 君はいずこに コロラドの月の夜 はかなく夢はかえる AM12:20、コロラド州のドゥランゴ(Durango)で昼食。ブリッタはこの町でも幼少期を過ごしている。側を流れるアニマス川(Animas
River)では、ラフティングを楽しんでいる若者の声が聞こえるが、ブリッタもそれで遊んでいたと言う。 Animas
River-1 此処の公園には多くの小、中学生位の生徒が来て、バレーボールやサイクリングをしている。「課外授業なのかな」と聞くとまだ6月だというのに、「サマー・キャンプ」だと言う。「昔は農家の繁忙期の5月末から8月一杯は、農業の手伝いをするために、夏休みにしていたが、現在は農業が機械化されて、手伝うこともなくなったので、子供たちは、サマー・キャンプに出かけることが多くなりました。どちらにしても夏休みは3ヶ月程になります」との事。 Animas
River-2 PM1:40、出発。 PM3:30、トイレ休憩。風が強くなってきた。湿度が上がり、鼻や喉の粘膜に優しいことがわかる。 PM3:40、ユタ州(Utah)へ入る。 Utah PM4:40、モアブのキャニオンランド・キャンプサイト(Canyon land
Campground)に到着。早速テントを張る。どの位の時間で張れるか時間を計ってみたら、約20分であった。 PM5:30、続いて夕食。我々がテントを張っている間に、ブリッタが買ってきた「チキンの蒸し焼き、野菜サラダ、マカロニサラダ」で、簡単な夕飯を済ませる。 PM6:00、アーチズ国立公園(Arches
NP)にあるデリケート・アーチ(Delicate
Arch)での日没を見に、ブリッタの運転で出発。 PM6:45、登山口のウォルフ・ランチ(Wolfe
Ranch)に車をおいて、此処から徒歩で登る。もう下山してくる人もいる。 コース案内板には次のような注意が書かれていた。 水を1リットル以上持参せよ。 靴はハイキングシューズを履くこと。 雷雨が近づいたらすぐ車に戻れ。 道に迷ったら日陰を見つけて誰か来るのを待て。 片道2.4km、高低差146m Arches NP-1 Arches NP-2 PM7:30、目的地に到着。デリケート・アーチはユタ州のシンボルになるだけあって、何とも見飽きない自然の造形物ではある。今日の日没は、午後8時32分だと言うから、此処に1時間ほど居ることになる。汗ばんだ体に、夜風が吹き付け、一気に体温を奪われていく。私はジャンパーを取り出して着たが、それでも風の強さに居心地の悪さを感じ、岩陰に降りて横になった。 Delicate
Arch PM8:20、そろそろ日没の時間になるので、岩陰から身を起こして、岩の上に出た。太陽が西の地平線に沈んでいく。しかし、期待していたような劇的なシーンは現れず、集まった群衆は、パラパラと帰りだした。この程度のサンセットなら、何も1時間もじっと待っている価値はないと思った。 PM8:45、下山開始。登りに比べると、体力的には随分楽である。下山の途中で、ブリッタが趣味のロッククライミングをして見せた。 Britta PM9:15、駐車場着。 PM10:00、車でキャンプ場に帰着。シャワーを浴びる元気もなく、そのままテントの寝袋の中へ。今日は冷えているので、寝袋を購入して初めて、その中に入って寝ることに。お疲れさまでした。 7月1日(金) モアブ AM6:00、起床。快晴。初めて寝袋の中で寝たが、それでも少し寒い位であった。これ以上冷えたら、下着を重ねて着るしかない。気温の上下の激しさに戸惑うばかりだ。 Canyon land
Campground AM6:30、シリアルとバナナ2本の、あわただしい朝食。 AM7:00、出発。今日も、アーチズ国立公園内を見学。公園内の車で移動できるところは、ブリッタが我々を運んでくれる。お昼過ぎまで、あちこちのアーチをみて回った。 AM7:20、まず1.6kmに及ぶ、ゆるい下りのパーク・アベニュー(Park
Avenue)を歩く。何万年にも渡って自然が造り上げた彫刻の数々を見て歩く。此処の国立公園は、オーストラリアの中央部を歩いた時と同じ様な印象を持った。鉄分を多く含んだ、赤くて比較的柔らかい岩、数億年前は海底であった。岩に波紋が見られ、岩塩がとれる等、同じ様な地質である。 Park Avenue 車から我々を降ろしたブリッタは、我々をピックアップする地点に先回りして車を置き、そこから駆け上がって来た。「車を運転しているだけでは、体がなまってしまうから」と言う。そして我々が下りの片道を歩いている間に、彼女は往復を走った上で、我々を待っていた。若いエネルギーをつくづく羨ましく思う。 コートハウス・タワーズ(Courthouse Towers)のエリアで、自然が造り上げた感動的な彫刻は次の通り。 Courthouse
Towers-1 我々があわただしく歩いていると、コートハウス・タワーズの一角にじっとたたずんでいる婦人が居た。悠久の歴史に思いを巡らしているかのように、じっとして動かない。忙しく見て回るだけの観光を、恥ずかしく思った。 Courthouse
Towers-2 Courthouse
Towers-3 AM8:30、次は悪魔の庭(Devils Garden)へ。此処で見たのは、次の3つのアーチだ。 1、トンネル・アーチ(Tunnel Arch) 2、パイン・ツリー・アーチ(Pine Tree Arch):通り抜けができる。 3、ランズケープ・アーチ(Landscape Arch):世界最長のアーチで、その長さは306フィートである。今にも崩れそうだ。 そしてアーチではないが印象的な造形物もあった。 Devils
Garden-1 Devils
Garden-2 Devils
Garden-3 AM11:00、デリケート・アーチへ。此処は昨夜上から見たところだが、今度は下から見る。 Delicate
Arch-2 このデリケート・アーチは、数百あるアーチの中でも、最も魅力的なアーチらしい。お土産屋さんの絵葉書や本の表紙にも、この写真が一番多く使われている。 AM11:40、駐車場に戻ると、一組の夫婦と立ち話。「息子が2年間、モルモン教布教のため、九州の福岡で暮らしたことがあり、日本語が話せる。今は地元のユタ州で看護師をしている」と言う。此処ユタ州のソールトレイク・シティ(Salt Lake
City)には、モルモン教の総本山があり、我々がテントを張っているモアブ市の名前も、モルモン教の聖書から取られていると言う。 いつの頃か、モルモン教は住民からの抵抗や迫害を受けて、山奥のユタ州に拠点を構えたが、現在のユタ州はモルモン教に覆われているかに見える。 AM12:00、次に見学したのは、 1、二重アーチ(Double Arch) 2、洞窟の隠れ場所(Cove of
Caves) この時間帯になると、日差しが強くサングラス無しでは居られなくなる。歩きにくい砂地を歩いてこれらの近くまで行き、カメラに収めるが、なかなか構図が決まらない。写真の出来映えは、太陽の位置、自分の立ち位置、季節等、種々の条件で変わってくるので、今と言う、与えられた条件の中で、絵葉書のように綺麗な写真を撮ることは難しい。 PM1:00、アーチズ国立公園のビジター・センターへ入り、展示物や土産品を見た後、キャンプサイトへ向かう。その途中のコロラド川(Colorado
River)で車を止めてもらい、橋の上からコロラド川をカメラに収めた。コロラド川の源流は、コロラド州のロッキーマウンテン国立公園内である。 Colorado
River PM2:15、モアブのキャンプサイトで簡単なサンドイッチの昼食。 Moab-2 PM2:30、これからサンセットの見学に出かける6時半までは自由時間。私とアッキーは、モアブ市の図書館に行くことに。暑い日差しを避けて日記を書きたいと思う。図書館の受付では快く入館を認めてくれ、ポメラを叩くにはこれ以上の環境はないだろうと思われる場所を提供してくれた。あまりの心地よさに、しばし居眠りをしてしまった。 PM6:30、キャニオンランズ国立公園(Canyonlands
NP)とアーチズ国立公園との間にある、デッド・ホース・ポイント州立公園(Dead Horse
Point SP)でのサンセット鑑賞に出発。 PM7:45、現地に到着し、まず、こちらに来る途中で買った、巨大なピザ2枚で夕食。パイナップルの入ったハワイアン・ピザと、チョウセン・アザミ(Artichoke)の入った、ベジタリアン・ピザ。それぞれ8つにカットされているので、5人が3カットずつ食べても余る。アッキーは3カット食べたが、私やブリッタは2カットで腹一杯だ。 「デッド・ホース・ポイント」という地名の由来に興味があって、近くにいた婦人に尋ねると「西部開拓の時代にカウボーイが馬を追ってこの地点に来た。その時ここが絶壁になっていることを知らずに、馬を追い続けた為に、1頭を残してすべての馬が崖下に落ちて死んだ、という歴史があった」と言う。こういう話は何処かで一度聞いたことがあるが、それが此処であったのだろうか。 Dead Horse
Point SP-1 ビジター・センターで貰ったパンフレットに書かれている伝説は次の通り。 「19世紀、カウボーイたちは野生の馬を捕まえるのにデッド・ホース・ポイントを使った。周囲の切り立った崖と、たった30ヤードの幅しかない入口とで、そのポイントは馬にとって完璧な罠になっていた。カウボーイたちはそのポイントに馬を駆りたて、そして狭い入口にフェンスを立てて自然の囲いをつくった。伝説によれば、一群の馬が水のないこのポイントに囲われたまま放置されて、コロラド川が2000フィート(約600m)下に見える所で、喉の渇きの為に死んだ」と。夫人から聞いた話とは大分異なっていた。 Dead Horse
Point SP-2 そして「地球の歩き方」(’11〜’12アメリカの国立公園)に書かれている伝説は次の通り。 「かつて地元のカウボーイがグース・ネックに野生の馬を追い込み、幅27mしかない半島の首の部分に柵を設けて馬を捕獲していた。しかしあるとき、喉の渇きに耐えられなくなった馬が逃げようとして断崖へ踏み出し、転落して死んでしまった」と。 パンフレットとの違いは、「喉の渇きで死んだのか、転落して死んだのか」である。デッド・ホース・ポイントに立って見ると、「崖から転落して死んだ」と言われる方がドラマチックではある。「伝説だから正確なことは分からないよ」と言われそうだが、私にとっては妙に引っかかる地名の由来であった。
Dead Horse
Point SP-3 食後、日没の時間まで自由時間。あちこちの地点からシャッターを押すが、日暮れの時間帯で日陰ができたり、薄暗かったりで、欲しい絵は撮れそうもない。しっかり瞼に焼き付けて置くしかない。 PM9:00、帰途へ PM10:00、キャンプサイトに帰着。 |